4.約束
「坂河、これは?」
「だめだな、難しすぎる」
「こっちは? 思いきって幼稚園児向け」
「さすがにちょっと……」
葵は唸った。「オレの同居人は確かにとんでもない点数取ってきたけど、一応小六……」
「小学校の単元テストで0点なんて、なかなか取れるもんじゃねーよな」
大崎が感心している。引田は別の問題集を手に取り、
「バイト代くれんならさ、小学生の勉強くらい見られるぜ」
「あれ、おまえ、いつの間に小学校の勉強できるようになったんだ?」
「坂河……」
傷つく引田をよそに、大崎が葵に迫る。
「なあ坂河、圭斗ちゃんておまえの彼女じゃないんだろ。おれ、本気でいっていい?」
「大崎っ、抜け駆けすんな!」
引田が顔を赤くして怒鳴る。
「いい、なんて言うわけないだろ。俺はかわいい弟、ホモにする気はないぜ」
葵は本屋を出ながら言う。テスト中のため、学校は午前で終わっている。
「……へ?」
「お、弟?」
間抜けな顔をする二人に、まあだ気づかねえでやんの、と笑ってやる。
「山波圭斗小六男子! うち(ハリィハック)のお馬鹿な末弟だよ」
大崎と引田の悲鳴が辺りに響き渡る。
「……う、うそだ」
「じょうだんをいってんだよな、さかがわ?」
ショックのあまり話し方が幼くなってしまう引田。
「冗談、ねえ」
葵は言った。
「オレが嫁入り前の娘と同居すると思う?」
「……しない、な」
大崎と引田はがくりと肩を落とす。坂河はそういう男だ。
やがて緑穂小学校の前に差しかかった。体育で小学生たちがわあわあ言っているのが聞こえてくる。
「元気だなあ。若いオーラがまぶしい……」
「おまえはつくづくオッサンだよ、坂河」
「ほっとけ」大きなお世話だ。
言い合っていると、校庭から赤いゴムボールが飛んできた。大崎の頭に当たる。
「ドッヂボールか」
葵が投げ返そうとすると、目隠しの植木とフェンスを跳び越えて、圭斗が出てきた。
「あれー、葵だ!」
嬉しそうに駆け寄ってくる。「陵也狙ったんだけどな」
「おまえが投げたの、こんなとこまで?」
「うん!」
「圭斗ちゃん……」
大崎と引田が圭斗の、頭のてっぺんから爪先までじろじろと眺め回す。
「……?」
圭斗は怯えたように葵の背に隠れる。
「おまえらいい加減にしろよな」
葵が溜息を吐く。と、大崎と引田は涙目で彼を睨む。
「本当に男じゃないか!!」
「坂河のバカヤロー!」
葵は知らん顔をして、
「ほら圭斗、授業中だろ。もう戻れ」
「うん。じゃあね、葵」
「寄り道しないで帰って来いよ」
「はーい」
圭斗がボールを持って校庭に戻っていく。こらあ、山波! と、担任のものらしい声がした。
歩き出した葵は、再び足を止めた。
「どうした、坂河」
引田が葵の視線をたどる。その先に立っていた男、あれは――
「大崎、あれ、あいつ」
「え?」
引田に促されて、大崎も見た。
「あっ、圭斗ちゃんをさらおうとした奴!」
「――やっぱりあいつか」
つぶやいて、葵は工藤昇の背中を睨みつけた。
「――圭斗」
陵也が圭斗の頭に手を置いた。「もう、帰らないと」
「……うん…」
圭斗は足元の、そこから離れたがらない仔猫を抱き上げた。灰色の毛並みを指先でそっと撫でる。
「一緒に帰ろう。ね?」
仔猫は少しの間、彼の腕から逃れようともがいていたが、やがて赤く染まった服に頭を擦りつけ、鳴きはじめた。
秋人が、掘った穴に横たえた母猫の体に、ゆっくりと土をかけていった。
6月1日
学校の帰りの道路で猫が車に轢かれていた。
アキと陵也と一緒にお墓を作った。
赤ちゃん猫を連れて帰ったら、葵が『灰』という名前をつけてくれた。
「葵ー、この子チンチンないよ」
「雌だからだろ。ほら、そんなとこあんまり見るな」
「ニャー」と灰が鳴いた。
「恥ずかしい? ごめんね」
圭斗は灰を膝の上に下ろした。
「あった、注射器。ほら」
机の引き出しを探っていた椎名が、葵にそれを放ってよこした。
「え!? なんですか」
「針外してガーゼ巻けば、哺乳瓶代わりに使えるでしょ」
「はあ、なるほど」
「たまに変なこと知ってるな」
言った克魅を、
「たまにしか来ないくせに、なにを偉そうに」
椎名が睨む。今ハリィハックにいるのはこの四人と一匹だけだ。
「俺は忙しいんだ」
「はいはい。なにに忙しいんだかね」
「…………」
黙り込む克魅。
(うわあ、怒ってる怒ってる)
葵は圭斗と灰をさりげなく寝室へ非難させた。克魅に八つ当たりされるのを防ぐためだ。
こうして、微妙な緊張感の中、夜は更けていく……。
✾
それに気づいたとき、初めはただ否定し続けた。認めるわけにはいかなかった。
そのとき昇は小六で、一方の圭斗は小一だった。一年生なんか、赤ん坊と変わらない。弟の匠と同い年の、それなのに体はもっとずっと小さい圭斗に、恋をしただなんて。
圭斗はいつも傷だらけだった。それが圭斗の親の手によるものだと、昇は知っていた。それと、匠と章太を始め、圭斗の傷や体の大きさを面白がってからかうクラスメートたちの、悪意のない暴力によるものだということも。
昇は守ろうとした。しかし、どんなに話しかけても優しく抱いても、圭斗からは何も返ってこなかった。か細い声がつむぐのは昇の知らない人間の名前、その瞳が見つめるものは、昇ではないなにか。悲しそうな寂しそうな顔をして、待ち続ける。その相手は自分ではない―――
決して報われない想いを抱いたまま、昇はいつしか高校生になっていた。もうだめだ、もう待てない。圭斗を、力ずくででも手に入れてやる。
そして実行した。いや、しようとした。抵抗なんかできなくなるほどに殴って、服を引き裂いて、そして――圭斗は男だった。
なんてひどい裏切り。
目を閉じていれば、どんなに睨まれたって平気。耳を塞いでいればなにを言われても平気。いないふりをして、何も言わないで、目を合わさずにじっとしていればぶたれることもない。
我慢していればいい。
約束したもの。迎えに来るって。幸せにしてくれるって。だから、ただ我慢して待っていればいい。そうしたらシアワセになれるんだ。
待っていればいい。約束の日まで。十二歳の、誕生日まで。
それまでに必ず迎えに来るって、そう言ったんだもの――――
アタマいたい。そういえば、ガツンとかいう音がした気がする。そうか、これが克魅の言っていた、「背後から殴られて気を失う」というやつか。誰だよ、ひどいことするなあ、もう。これ以上バカになったらどうしてくれるの。次の漢字テストで五十点以上取らなきゃ葵に怒られちゃうんだからね。
圭斗が目を開けて見たものは、コンクリートの床。起き上がりながら顔を上げると、そこにいるのは工藤昇、駆けてくる匠と、立花章太。
「山波!」
匠と章太が、昇と圭斗の間に立ちはだかった。
「なんだ、邪魔しに来たのか、おまえら」
「あたりまえだろ!」
匠が叫んだ。「おかしいよ兄貴。もういいだろ。山波になにする気だよ……」
「どけ、匠」
ためらいもなく、昇は弟を殴り倒した。匠、と章太が悲鳴じみた声を上げる。匠は気絶しているのか、動かない。
「にーちゃん、まさか……山波を殺すつもり――」
「だったらどうした」
昇は笑った。呆然としている章太の横を抜け、状況を理解していない圭斗に歩み寄る。
匠が叫び声を上げながら、兄の腰にしがみついた。
「逃げろ山波!」
「匠――」
昇は弟を見下ろした。
「圭斗がいなくなった!?」
葵が叫んだ。「……どこに隠したんだよ」
克魅はソファにふんぞり返った。
「俺のしわざじゃあ、ない」
「…………」
信じる気配のない、葵の視線。
「買い物に行ったんだ、ヤツは」
「どこまで」
「俺が知るか。大体だな、商店街から出るなんて一言も言ってなかったんだぞ。一応俺も探したんだからな」
「探したぁ? 酒屋にビール買いに行っただけだろ。しかも売ってもらえなかったんだってな」
克魅はフイと目を逸らす。
「ともかく、そんなに心配する事もねえだろ。曲がりなりにも俺が日々鍛えてやってんだからな」
「鍛えてる!?」
葵は目を剥いた。「もしかして、圭斗の日記の『地下室で―――(うんぬん)』て書いてあったのは……」
溜息を吐く。
と、デスクの上の電話が鳴った。
「はい、ハリィハックです。――警察ッ?」
葵が受話器を手にしたまま克魅を見る。克魅は嫌々立ち上がる。ますますお抱え運転手扱いされている気がしてくる。一度ガツンと言っておかなければ。
「――はい、分かりました。すぐ行きます」
葵は受話器を下ろすなり、「克魅、車!」
「へーへー。どこに行きたいんだ?」
「平内総合病院」
「――あら、もう昼?」
寝室から椎名が出てきた。「なに、どっか行くの?」
「ちょっと、圭斗迎えに行ってきます」……いたの?
「帰りにヨーグルト買ってきてね。いつものヤツ」
寝起きの椎名に見送られ、二人は車に乗り込んだ。
「で、なんだったんだ?」
車を発車させ、克魅が訊く。
「ああ、どうも圭斗(あいつ)、工藤昇の頭かち割ったらしいんだ」
葵の言葉に、つい急ブレーキを踏みそうになる。
「……なかなかやるな」
「感心してどうすんだよ。――いや、正当防衛らしいんだけど。工藤匠と立花章太が証言したんだと。昇に首絞められて、とっさに偶然落ちてたビール瓶でガツン!」
「今時ビール瓶なんてどこに落ちてんだよ」
克魅が言うと葵は頷き、
「そうだよなあ。ワインボトルのほうが現実味あるよな」
そんな話をしている間に、病院に着く。
――圭斗は廊下のベンチにうつむいて座っていた。傍に刑事と思われる中年の男が立っていた。
「圭斗」
刑事を克魅に任せ、葵は圭斗の前にしゃがんで顔を覗き込んだ。首の絞められた痕があざになりかけている。
「圭斗」もう一度呼ぶと、細い肩がびくっ、と震えた。血のついた自分の手から、目を離せずにいる。
葵はその手をそっと包み、言った。
「どうした、圭斗。自分の身を守ったっていうのに、なに落ち込んでるんだよ?」
「でも……」
消え入りそうな声で、それでも圭斗は言った。
「ケガ―――血が、いっぱい――」
「なに言ってんだ。あいつは罪も無い十二歳の子供を殺そうとしたんだぞ。おまえはその極悪人を倒したんだ。ものすごくいいことじゃないか」
圭斗は目を大きく見開いて、葵を見つめた。葵はくすっと笑い、彼の髪を撫でてやった。
「手洗ってこい。ここで待ってるから」
「――うんっ」
圭斗はようやく笑顔を見せ、立ち上がった。
トイレで手を洗った圭斗は、少し考えた。――でるか? あ、でそう。だしとこう。
用を足していると、同い年くらいの少年が駆け込んで来た。圭斗の隣に立つ。
「――はぁ〜、間に合った……」
圭斗が再び丁寧に手を洗っていると、少年はやはり隣で手を洗いながら、
「なあ、ヒマ?」
突然問い掛けてきた。
「え?」
「ヒマだよな、ちょっと来いよ!」
答えも聞かず、濡れたままの手で圭斗の腕を摑む。強引に連れて行かれたのは、新生児室前の廊下。大きな筋肉質の青年と、髪形こそ違うが同じ顔をした二人の少年が立っている。
圭斗を連れてきた少しつり目の少年はガラスにへばりつき、
「ほら見てくれよ! 一昨日生まれたばっかなんだぜ、オレの妹。千夏(ちなつ)っていうんだ、かわいいだろ〜〜っ!」
とろけそうな顔をする。圭斗は妹自慢の為に引っ張ってこられたようだ。
「うわぁ……っ!」
圭斗は目を輝かせ、ずらりと並んだベッドの赤ん坊たちを見つめた。
「すごい、ちっちゃ〜い」
千夏とやら限定で言ったわけではなかったのだが、
「そうだろ!? そこがまたかわいいんだよな」
圭斗の呟きに飛びついてきたのは、マッチョの大男。赤ん坊の父親だろうか。よく見ると、つり目の少年と顔つきが似ている。少年が、
「あ、このゴリラ、オレの従兄」
と、大男を指差した。
同じ顔をした二人の、前髪の一房だけピョンと跳ねている方の少年がつり目の少年をつついた。
「ね、透夜、ちーちゃんのこと、『ちーちゃん』て呼んでいい?」
「もう呼んでんだろ、ばか」
もう一人の方が冷たく言った。
「アヤ……そんな言い方しなくたっていいじゃないか。いっこ上のオレより一ミリ背が高くなったからって。お兄ちゃんはかなしい! 傷ついた!」
双子だと思っていたが、そうではないらしい。兄の方が、よよよ、と泣き崩れる。
「うるせえんだよ、静かにしろ、病院だぞ!」
アヤと呼ばれた弟が、くどくどと説教を始める。
「あああああ。透兄、たすけてえ」何時間も説教される〜(怯)
廊下に正座させられ、しくしくと泣く兄。
「あ、あの」
「あ゛あっ!?」
声をかけた圭斗に、アヤくんはぎろりと、それこそ鬼のような目を向けた。が、次の瞬間、彼の目は大きく見開かれた。ぽかんとした顔が、見る間に真っ赤になっていく。
「あの、オレもう戻ります……ね」
「はっはい! すみませんでした、いきなりこんなトコに連れてきちゃって」
声を大きく張り上げたアヤくんに、圭斗はにっこりと笑った。
「遅かったな」
戻ると、葵が心配そうな顔をしていた。「うんこだったのか? は、まさか、便秘?」
「違うよ!」
圭斗が顔を赤くする。
克魅が缶コーヒーを二本持ってやってきた。ブラック無糖。
「遅かったな。下痢か?」
葵と似たようなことを言う。圭斗は憮然として、コーヒーを奪う。
「まったくもう、失礼しちゃう」
「返せよ、どうせおまえには飲めないだろう」
「飲めるもん! バカにして。見てろ――」
ごくごくごく。
圭斗は飲んだ。一息に一本空けた。そして、出した。
「にがい〜……」
「あーもう、バカやってないで帰るぞ。ほら、克魅も」
葵が克魅の頭をはたく。
「……なんで俺だけぶつんだよ」
「スキンシップ」
「………」
「克魅ぃ、あのさ」
車に乗り込んで、葵が言う。
「今度の日曜、動物園でも行かねぇ?」
「は?」
何を言ってんだ、こいつは。そういわんばかりの目が葵を見る。
「みんなでさ。な、圭斗。行きたいよな」
圭斗は目をまんまるに見開いて葵を見た。
「オレ、行ったことない。オレも行っていいの?」
「みんなでって言ったろう。それに、だいぶ遅くなったけど、圭斗(おまえ)の誕生日のお祝いも兼ねてさ」
葵のその言葉に、圭斗はショックを受ける。
「ほんとっ? 本当に? 絶対!?」
頬を紅潮させ、葵の腕を摑む。
「本当だよ。約束な」
「わあ――」
圭斗の顔中に、喜びが広がる。
「やったあ。………へへへぇ、うれしー」
「……バイト入れようと思ってたんだけどな」
克魅がぼやいたが、それは当然のように無視された。
6月2日
今度の日曜日にみんなで動物園に行くことになった。すごくうれしいけど、灰が赤ちゃんだから連れて行くのが大変だ。試練だ。がんばる。
葵のベッドの下にはいろんなものがしまってある。あれが克魅の言ってた、男の秘密ってやつなのだろうか。