
進路
「圭斗さあ……殺風景過ぎない?」
部屋を見回して、平内誠太が呆れた口調で言った。
「そうかな――」
「ちょっと待て、ベッドも布団も無いぞ!?」
根岸透夜が、寝床はどこだと部屋の主である山波圭斗を揺さぶる。
「だって……家具無しの方が家賃安いし」
マンスリーマンションである。
「どうやって寝てんだよ」
「そこの毛布に包まって」
「おまえなぁ……」
透夜がため息をついていると、誠太が鼻をひくつかせた。
「さっきからいい匂いしてるけど、なに作ってんの?」
その言葉を待っていたかのように、キッチンから電子音。
圭斗が立って行き、オーブンレンジから焼きあがったブラウニーを取り出す。
「それ、言ってた透兄の差し入れ?」
「そう。今から透さんのところ行くけど、誠太たちどうする?」
「行く」
透夜が即座に頷く。「それ、オレらの分もある?」
H署刑事課、週に一度のお楽しみ。
いかついおじさんたちにおやつを届けた後、三人は近くのファミリーレストランに入った。
注文を済ませた後、誠太と透夜は気になっていたことを圭斗に訊いた。
「圭斗さ、高校どこ受けるか決めた?」
「ん――まだ。誠太と透夜は?」
「オレらは水景だから、エスカレーターで」
誠太と透夜の通う私立水景学園は、幼稚園から大学まで備えているので、二人は受験をせずに高校生になれるのだ。その代わり、三年生の最後の定期試験は、赤点が普段のものより高く設定されている。
「そうなんだ……どこでもいいんだけどなぁ。あ、でも公立の、普通科かな」
「おゃ――誰かに相談とかしてる? 大事なことだし」
と、誠太。
「してないな――やっぱおじさんには相談した方がいいかな」
圭斗の保護者代理の阿倍は、誠太と透夜にはあまり受けが良くない。案の定透夜が、
「……圭斗があのおっさん信用してんなら別にいいけどさ。でも怪しくねえ?」
「ひげが?」
「そう、あのひげは怪しい……ってちがう! そうじゃないだろ。素性が知れないっつってんだよ」
「そりゃ確かに、どこの誰なのかって点では怪しいこと極まりないけどさ」
「認めんのかよ……」
「でも悪い人じゃない。と思う」
「説得力ねーよ。見極めろよ。そこんとこはびしびしと」
「びしびしか……透夜のえっち」
「なにがだ。おまえのその発想のがよっぽどえっちだ」
「二人ともなんの話ししてんの? ――ああっ、SM?」
誠太がポンと手を打つ。圭斗はそんな彼を一瞥して、
「えっちといえば誠太の名前だよね」
「は?」
「おれの名前?」
「そう。性太――」
ごすっ。
「だめだ……圭斗、水景来ねえかなとか思ってたけど、無理だ……」
「きっとおれたち並みにバカなんだね……」
「(痛い……)しんみりそういうこと言うな。――そうだ、透さんと海お兄ちゃんは?」
「…………。高校? 透兄は確か瞭歩で海兄は環海だったかな」
瞭歩高校は地元の公立校、環海高校は正式には「水景学園 環海高等学校」(中等部もある)といい、水景学園の敷地内にある。「水景学園 中等部・高等部」と違うのは、女子部と男子部に分かれていることだけだ。
「ふぅん……そういえば海お兄ちゃん、今なにしてんの?」
スプーンを使わずにフォークに巻きつけたパスタを口に運びながら圭斗が訊く。彼の向かいで、二人は困ったように顔を見合わせた。誠太が重そうに口を開く。
「海兄、行方不明なんだ。六年前に、急にいなくなっちゃって」
「透兄が刑事になったの、海兄を探すためなんだ」
「なんで、海お兄ちゃん……?」
「わかんねえ。でも透兄は、なんか知ってる。なのになんにも言わねえんだ」
「あのさ、圭斗。だからおれたちも透兄に言ってないことがあるんだ。圭斗――聞く?」
「透さんに言ってないことを、俺に? なんで?」
「 “力”持ってるから。海兄のことだし、まったく無関係ってわけじゃないと思うんだ」
誠太はコーラを一口飲んで、
「海兄がいなくなる半年ぐらい前から、おれ、すごい嫌な“力”を感じたんだ。海兄がいなくなって少ししたら、なくなったけど」
彼はそれを思い出したのか、ぶるっと身震いした。「すごい怖かったんだ。普通の人はなんにも気づかなかったみたいなんだけど、海兄はすごく怯えてた。学校違ったけど、いっつも透兄と一緒にいた。透夜はなんか変だって感じてただけだったから、あの“力”は、きっと海兄に向けられてたんだ。だって海兄の“力”は他の人の“力”を感じるようなタイプじゃなかったから」
「じゃ、明日のノート頼むわ」
杉浦潤は友人二人に手を合わせた。中学三年の彼は、土曜日に行われる水景学園の学校説明会に行くべく、明日金曜日の授業ノートを頼んだのだ。
「……べつにかまわへんけど、気ぃ早すぎやないんか?」
「あほ! 明日のんびり学校来て、帰りにあいつに捕まったらどないすんねや」
オレンジ色の髪の毛を振り乱して言う潤に、友人たちは納得する。
「あの人が来る前に逃げようって魂胆か」
「なんであんなに気に入られてんやろな」
同情口調の友人二人を潤が睨む。
「ほっとけ……」
「で、水景学園てどこや? 聞いたことあらへんぞ」
「俺の生まれ故郷」
「横浜? めっちゃ遠いやん。なんでわざわざそんなとこ――て、あの人から逃げるためやな」
「そ、それだけやないで! あっちにはな、俺のかわいい嫁さんが待ってるんやvv」
「それって前に言ってた……?」
「ほんとなら三年前に迎えに行く約束だったんや。ま、ちょっとくらい遅れたかて、どうこうなるようなモンでもないし。俺たちの愛は永遠や……v」
「その現実逃避癖やめや」
「逃避言うな。ええわ、どうせおまえらにはこの壮大な愛のロマンスはわからへん」
「なにが壮大な愛のロマンスや。ホモで受けのくせに」
「俺はバイで攻めや!! 恐ろしいこと言うな!」
「どうでもええけど、本鈴鳴ったで」
三人は慌てて屋上から教室へ向かった。
金曜日。
誠太の部屋に寄り集まった三人。圭斗が誠太の弟・彩太を手懐けて勉強会が終わると、透夜が言い出した。
「圭斗、明日暇か? 水景の説明会あるんだけどさ」
「水景って私立じゃん」
「説明会はタダだぞ」
「……透夜の話し方って透さんとそっくりだよね」
「そんな感想はいらねえ」
「んーじゃあ、行くだけ行ってみようかなぁ」
「10時からだから遅れんなよ。おれたち受付やってるからな」
「わかった。――あ、もう五時か。俺帰るね」
「え、もう?」
立ち上がった圭斗を誠太が見上げる。
「おじさんのトコで夜ご飯食べる約束してんだ。じゃあ、明日」
「はぁ……」
土曜日。水景学園講堂。
「圭斗? どうしたんだ? やたら暗いな」
透夜が圭斗の顔を覗き込む。
「……屈むなっ」
圭斗が前髪とメガネの下から透夜を睨む。
「しょうがないだろ、おれのが背高いんだから」
「そうそう、直立したままじゃ、俯いてるやつの顔は見えないよ」(←悪意なし)
「ちくしょーっ、バカにしやがって!!」
圭斗は誠太に右ストレートをかまし、並べてある椅子のほうへ駆けていった。
「……おれ、なんかした?…」
「潤、遅えな」
呻く誠太を無視して、透夜は視線をさまよわせた。
杉浦潤は、昨夜平内邸へ現れた。誠太の親と連絡を取っていたらしく、彼はその日誠太の隣の部屋で寝ることになっていた。
「あ、来た。潤、こっちだ!」
二人のもとへ、オレンジ色の頭が近づいてくる。
「よう、間に合ったか?」
「ぎりぎりだよ。どうしたの、迷った?」
資料を渡しながら訊く誠太に、潤は、いやー、と笑った。
「でかい本屋あるとつい入りたくなってなぁ。ハーレクインが――」
「もう始まるから席行けよ。圭斗あっちの方にいるから」
「お、サンキュウ。じゃ、あとでなー」
無邪気に手を振って二人のもとを去る潤。
「ああやだやだ」
誠太はプゥと頬を膨らませた。「どうしてこう、圭斗も潤も、十年であんなふうになっちゃうかなぁ」
「あんなふう?」
「女の子にもてそうな」
「カオか……。確かにちょっとむかつくよな。こっちは女っ気まるでないのに」
透夜も頷くが、二人とも、圭斗と潤が異性にもてている現場を見たわけではない。単なる思い込みである。
説明会終了――
「じゃあね――」
のっそりと、圭斗が受付の前を通り過ぎようとする。
「あ、ちょっと待って圭斗」
「……なに?」
「まだ潤に会ってないでしょ? 待ってれば」
「……ジュン?」
「昨日からこっちに帰ってきてるんだよ」
「……ごめん、今日は帰る」
「それは別にいいけど――どうかした?」
誠太の問いに答えず、圭斗はもう一度「ごめん」とつぶやいて立ち去った。
「せーいたっ」
潤がやって来る。「透夜どうした?」
「部活行った。圭斗今帰っちゃったよ、いいの?」
「なにぃっ、ホンマか!? ……まあええ。慌てて追っかけてってもカッコつかへんし。午後にでも花束持ってくわ」
「……花束?」
「改めてプロポーズするに決まってるやんかv」
「プロポーズ!? 改めてって……圭斗、男だよ?」
「性別なんてかまわへん。圭斗が俺好みになってることを祈るのみや」
「かまえよ、性別は」
「どっちでもええんやって。俺バイやから」
……バイ? 誠太は首を傾げた。バイって、バイセクシャル? いわゆる両刀ってやつ?
「…………ぇえええええっ!!???」
誠太が跳びすさり、潤はにやりと笑った。
「安心し。おまえは好みやないから。透夜もな。俺はくりっとかわいいのが好きなんや。あ、彩太は結構いけるな」
「!!?」
「ああ、残念やな。今夜は圭斗と甘い夜を過ごす予定やから彩太とはできへんなぁ」
「なにを!!? だめだからな潤! アヤに変なことしたら許さないからな!」
「……いいお兄ちゃんやなあ」
「え、そう?」
誠太が照れたところへ、
「誠太! なにサボってんだ!!」
どすどすという足音とともに彩太がこちらへやってくる。
「さ、サボるもなにも、もう受付は――」
「片付けをしろぉ!!」
「はいぃぃい!!!」
すっ飛んでいった兄の背中を睨んでいた彩太、
「まーまーアヤちゃん。そうかっかせんと」
潤に尻を撫でられて悲鳴を上げ、次の瞬間にはもといた場所から5mも離れたところに逃げている。
「こ、こっこ、この変態! 昨日から何度も何度も……!」
「彩太――っ? どうしたの、すごい声出して」
親友が小走りに駆けてきて、彩太はあわてて首を振った。
「な、なんでもないっ。それより楓、今日はお兄さんのお見舞いに行くんだろ。片付けなんかいいから早く行ってこいよ」
「昼から行けば大丈夫だから。行ったってなにするってわけでもないし」
生徒会の仕事サボってまで行くことない、と楓は言う。中等部生徒会副会長の彩太は呆れたように、
「ほんとは行きたくないんだろ」
「……うん。いつも兄ちゃんのそばに誰かいるから、なんか、やだ」
「楓……」
「こっちもなかなかかわいいやん」
「離れろ楓ぇ!!」
「えっ?」
楓の背後に現れた潤、彩太に蹴倒される。
(あ〜あ、潤、そろそろ逃げたほうがいいのに)
パイプ椅子を片付けながら、誠太が心の中でつぶやく。彩太は顔を真っ赤にして激昂している。
「ああっ、もう我慢できない! ここに座れ杉浦潤!!」
有無を言わせぬ口調で、潤をその場に正座させた彩太は、声を荒げて説教を始めた。
「――おい、平内兄」
近くにいた高等部の教員が、こっそりと誠太を呼んだ。
「これ、弟に渡しておいてくれ」
と、講堂の鍵を渡す。
「すいません……」
受け取ると、教員はそそくさと離れていった。
中等部名物、説教魔・平内彩太。彼は、一度怒らせるといつまでもそのことを忘れてくれない。ことあるごとに咎められ、クドクドと嫌味を混ぜた説教をされる。ただしそれは、悪意や敵意あってのことではない。あくまでも相手のため、立派な人間になってもらいたいという想いから説教をするのだ。一番の被害者は出来の悪い兄、誠太。
(あの調子じゃ3時間はああしてるよな……)
誠太は近くで片付けをしている楓くんを手招きする。
「ごめんね楓くん、ここの鍵、彩太に渡しといてくれる? 長引きそうだからさ」
「わかりました」
快く引き受けてくれる楓君、実は説教魔の被害にあったことがない。だからこそ平気で怒れる彩太に近づいていけるのだ。
優等生はオトクだよなぁ……。誠太はそんなことをつぶやいて、片付けを再開した。弟に怯えて、容易に近づけない自分が哀しい。
「うう、十年ぶりに帰ってきてこんな目に遭うとは……」
潤はまだ痺れの残る足を引きずって平内家への道を歩いていた。透夜の家に泊めてもらうんだった、と後悔する。あと一晩あの彩太と顔を合わせているのはツライ……。
すっかり日が暮れてしまっている。
正座のまま叱られること実に五時間。のび太のママもびっくりだ。彩太の喉は相当鍛えられているらしい。最後まで声が枯れることはなかった。あんな弟を持つ誠太に、ちょっと同情する。
「――あーもー、どうしたらいいんだろ……」
暗がりから、落ち込んだ声が聞こえてきた。透き通るようなアルトだ。声からして、かなりの美人。潤はうきうきと声の聞こえたほうに歩を進めた。背の高いお姉サマか、声変わり前の美少年か……
「コンバンワ♪」
「えっ?」
振り返ったのは、中学生くらいの少年。身長は潤の耳あたりまでだが、体重は3分の2ほどしかなさそうな細身。メガネに、頬骨あたりまで伸びた前髪……しかし輪郭は整っている。前髪から覗く瞳は大きく、総合的に潤の期待を裏切らない。前髪が少し長すぎる気はしたが、そんなことが気にならないほど、おいしそうな細い腰……。(←潤的にとっても重要)オプションに仔猫まで抱いている。
「なんか悩み事か? 俺でよかったら相談乗るでvv」
「ど、どちらさま?」
少年の猫を抱く腕に少し力が入った。警戒されているのだ。
当たり前だ。突然満面の笑みで声をかけてきた、怪しい関西弁の男。髪の毛はオレンジ色、耳にはバツ印をかたどったピアス。カツアゲかなんかと勘違いされてもおかしくはない。
「怪しいモンやないで。ちょっとナンパしようと思てるだけで」
「十分怪しい。俺は男だっ」
小さく動く赤い唇は少し厚く、かといって厚すぎない。思わず奪いたくなるような愛くるしいそれから紡ぎ出された言葉は、潤を思いっきり否定していた。
しかしそんなことでめげるような潤ではない。
「そーいう細かいことは気にせんと、ちょっとくらい付き合ってや。相談乗るし(ベッドの中で)。身も心もスッキリさせたるv」
「結構です」
彼はメガネの下から潤を睨むと、背を向けてさっさと歩き出す。
「ちょお待てや。そう冷たくすることないやろ」
「うるさいっ。俺は男なんかに興味ない!」
「……なるほど、その猫もメスやしな」
「!!」
少年は一度肩に乗せた猫をまた腕の中に入れる。
「このスケベヤロー! そのやらしい目で灰を見るな!!」
「このタレ目は生まれつきや! そもそもなんで猫のケツ見ただけでスケベ扱いされなあかんねん!」
確かにスケベではあるが。
「黙れっ、人が真剣に考え事してんのに邪魔しやがって!」
いつの間にか口喧嘩が始まっている。それも、今にも殴り合いに発展しそうな。
「やんのかテメエ」
潤が相手の胸倉を掴んで低く唸った。
「こんな細っこい体で俺に勝てるわけないけどな」
小馬鹿にした口調で笑う潤を、
「ケンカは体格でやるもんじゃねーんだよ」
言葉とは裏腹に、悔しそうに睨む。自分の体格にコンプレックスを持っているのだろう。足元を見れば、潤が胸を掴んで引き上げているので爪先立ちになっている。潤はまた笑った。少年は悔し涙まで浮かべているが、面白いものは仕方がない。しかし――
そんな目で見られると、怒りもおさまってくる。代わりに、あまりの色っぽさに頭の奥がくらくらしてきてしまう。
どうする。いっそこのまま物陰に連れ込んで、ありがたくいただいてしまうか。大体、胸倉は掴むものじゃなくて弄る(まさぐる)ものだろう? つーかこれは据え膳だろう?
目の前の相手がそんなことを考えてるとは思いもしない少年は、なぜか動きの止まっている潤の手を振り払い、その顎に膝を叩き込んだ。
「おぐっ!?」
うっかり妄想の世界に魂を飛ばしていた潤は、その衝撃で我に返る。ただし、ダメージはこれでもかというほど、少ない。
それにしても身の軽い奴だな、などと思っていると、少年はもう5mほど先を歩いている。一発食らわしただけで満足したらしい。
しかし、潤の気は済むわけがない。
「待てコラ――」
潤は言葉を引っ込めた。
少年の先に、大きな人影。
「ゆ、雪男……?(春だけど)」
いや違う。あれは。
「透兄ちゃん?」
10年ぶりに見たその姿は、ただ巨大化しただけのような気がして、おかしかった。つい、その場で5分ほど笑ってしまった。
「はぁ〜……」
偶然出会った透の横を歩きながら、圭斗はまたため息をついた。
「さっきからなに落ち込んでんだよ」
「べつに……」
「どうした?」
重ねて訊いた透の顔を見上げて、また下を向く圭斗。足が止まる。
「……おじさんが、」
「阿倍さんがどうした?」
言い淀む圭斗を促す。
「……………………養子に、ならないかって…………」
「…………。いやなのか?」
「………………」
圭斗は首を横に振る。
「とう、さんと母さんには、もう、話つけたって――」
圭斗の心を苦しめているのは、それなのだ。
阿倍の養子になることには抵抗はない。しかし、そのことと実の両親とのことは別なのだ。
阿倍が両親と話をつけた上で養子のことを持ちかけたということは、自分は両親に捨てられたということだ。三年前に家を出たのは、両親からそれを宣告されるのが怖かったからだ。逃げ出してしまえば、その言葉を聞かなくて済む。もしかしたら迎えに来てくれるかもしれないと、心の片隅に抱いていた期待も、とうとう捨てられなかった。
「……ごめんな」
透が言うと、圭斗は不思議そうに彼を見上げた。
「おまえに何もしてやれなくて。守ってやるって言ったのにな……」
「そんなこと……べつに、透さんに守ってもらおうなんて思ってないし。透さんがそんなこと気にすることないです。俺のことだし」
「おまえなぁ……でもまあ、そうだよな」
圭斗が寂しそうに顔を伏せた。その頭を、透が優しく撫でる。
「阿倍さんは養子に『ならないか』って訊いたんだろ? てことは、阿倍さんもおまえの両親も、おまえが好きなほうを選べばいいと思ってるってことじゃないのか」
「……………?」
「おれは、おまえはまだ大人の思惑なんて考えなくていいと思う。もしかしたらおまえの親もさ、なにがおまえの幸せなのかわからないでいるのかもしれないだろ。だってほんとに圭斗のこといらないんだったら、本人の意思なんて関係なく養子に出すことだって出来るんだろうし(その辺の法律とかってよくわかんないけど)。おまえは、おまえ自身が幸せになれるほうを選べばいいんじゃないのか?」
涙で濡れた圭斗の頬を、灰が舐めた。
圭斗は涙を止められないまま笑った。
「……ずっと前、おんなじこと言われました。『自分が幸せになれるほうを選べ』って」
「そうだろ? まだ子供なんだから、それでいいんだ。わかってんじゃん、そいつ」
阿倍さんか? と訊いたら声を上げて笑われ、透は圭斗の頭をげんこつでグリグリしてやった。そしてもちろん灰に思いっきり引っ掻かれ、仔猫の爪は細くてとびきり痛いのだと思い知らされた……。
――おじさんも、じっくり考えろって言ってくれてたし。
透と別れ、圭斗は幾分元気を取り戻して夜道を歩いていた。
と、前方でなにやら若い男女の言い争う声。
(痴話喧嘩か……)
馬に蹴られるのはごめんなので無視して通り過ぎようとする。
「きゃあっ」
「ぅわ!?」
男に突き飛ばされた女が圭斗を巻き込んで転んだ。
「……だ、大丈夫ですか?」
上に乗られて、間近に女の顔を見た圭斗、
「…………!!!??」
白目を剥くほど驚愕した。
「あ、ごめんね、きみ。ちょっとなにすんのよ!」
女が男に食って掛かる。
「なにすんのじゃねえ! おまえが俺にしたこと考えてみろってんだ!!」
「あたしがなにしたってのよ! 言っとくけど、あんたと付き合った覚えはないからね」
「な……!?」
「まったく、冗談じゃないわ。一回飯食ったくらいで彼氏ヅラされて。いい迷惑よ」
「……………」
キッツイ女……。圭斗はそんな感想を持った。言っている言葉自体は当たり前のことなのだが、言い方がきつい。相手を馬鹿にしているというか、存在価値すら認めていないような口調だ。
やはり、男は激怒した。
「嶺! テメエ――」
女に掴みかかった男の腕を、圭斗がはたき落とした。
「なんだテメエ、まだいたのかよ。ガキはとっととおうちへ帰んな」
「だめですよ、女の人に手を上げちゃ」
「んだと!? だったらテメエが代わりに殴られっか!?」
男は圭斗に殴りかかろうとした。
「圭斗ー、やっぱマンションまで送る――」
透がその巨体を表わしたのだ。
「げっ、根岸先輩……!」
と、男がつぶやいたのを、圭斗は聞き逃さなかった。
「透さん! たすけて殺される!」
明らかに嘘だろ、とわかる口調で叫んだ。
しかし、透を知っているらしい男にはそれで十分だった。素早く二人から離れると、圭斗を一睨みして逃げて行った。
「大丈夫か、圭斗――とそっちの人も」
透は、女に向いた。
ピ〜ンポ〜ン♪
午前10時。誠太、透夜、潤は圭斗の部屋に遊びに来た。
が、部屋の主が出てくる様子はない。
1分ほどしてから、インターフォンから女の子の声がした。
『だれ?』
「あ、灰? おれたち、わかる? 圭斗は?」
『いまねたとこだからかえれ』
「どうする?」
誠太が振り返る。
透夜がそれを押しのけて、
「入れてくれよ。起きるまで待つからさ」
『……圭斗にへんなことしない?』
「ああ、しないしない」
へんなこと? と誠太は首を傾げる。
『じゃあ……』
インターフォンが切れ、少しして玄関が開く。白いワンピースを着た、灰色の髪の毛の女の子が顔を出した。
「よう、灰」
灰の頭を撫でようとした透夜は、その手を彼女に思いっきりかじられた。「いってぇ!」
「なんや、このコ?」
「圭斗のペット」
「なに!?」
誠太の答えに、潤は自分の胸を押さえる。
「け、圭斗にそんなドッキドキな趣味がっっVv」
「楽しそうだねぇ。違うよ、灰はホントは猫なんだよ」
「なにあほなこと言うてんのや」
「灰は化け猫なんだ」
「ちがうもん! ――あっ、きのーのすけべやろー!!」
潤は驚愕した。灰とやらの台詞は、昨夜あのフェロモン少年に言われたことそのものではないか。
まさか。
あの少年は、自分の予想とは違う方向に成長した幼なじみだったのか?
「それでもべつにええなあ……」
ぼそっ。
誠太が「なにが?」という表情で潤を見るが、本人は気づかない。
「圭斗圭斗圭斗vvv」
潤はワンルームの部屋の中を見回した。何もないといっても差し支えないだろう室内。壁には制服が掛けられているだけで、カレンダーもない。部屋の隅にドラムバッグがひとつと通学用と思われるリュックサック、丸められた毛布。
「圭斗寝てるって、どこで――うっ」
丸められていた毛布が動いた。
「あー、ほんとにそうやって寝てんだ」
誠太と透夜は木曜日に来たときに聞いてはいたが、実際に見るとかなりショックな光景だ。他人に言わせると「お金持ちのおぼっちゃま」な二人には、圭斗の生活がちょっと信じられない。
潤が圭斗の寝ている傍に寄り、そっと唇を近づけていく。誠太と透夜が声も無くそれを見守っていると、
「こんちきしょーーーーーっっ!!!」
すっ飛んできた灰が不埒者を突き飛ばした。
「ぐっはあ!」
「――……灰? どうしたの、一人で騒いで……」
ゴキゴキ、ボキッ。
体中を鳴らしながら、圭斗がもそもそと起き上がった。
「体悪くするよ、いつまでもそんな寝方してると」
「あれ? 誠太透夜、来てたの?」
「うんほら、潤連れてきたんだ。圭斗、まだ会ってなかったでしょ」
「だって会いたくないし」
「なんでやぁぁぁ!!?」
潤が圭斗に飛びついた。
「うわ!? ……あ、昨日の――灰を狙ってここまで!?」
「どうしても俺を変質者にしたいんやな……」
「なんだよ、もう会ってたのか」
と、透夜。「なにおまえ、潤が約束破ったこと根に持ってんのか?」
「……透夜、なんで約束のこと知ってんの」
「だっておれらの前で指切りしてたじゃん。なあ」
「そうそう」
誠太が同意する。
「……あのさあ」
と、圭斗。
「もしかして、これ、ジュン?」
「これ……」
潤はがっくりと肩を落とした。
「やっぱり、怒っとるんやな。俺が三年前、迎えに来えへんかったの……」
――「圭斗の六年生の誕生日までに必ず迎えに来る」
父親の転勤で引っ越すことになった潤は、圭斗と離れることが不安だった。暴力を振るう親から、自分が守ってあげなければならないと思っていたからだ。
「別に、怒ってはいない」
圭斗は立ち上がり、やかんに水を入れる。「でも今更来るとは思わなかったよ。もう会うことなんてないと思ってたから」
「圭斗……」
「説明会に来ただけならここに来る必要ないだろ。なんか用でもあんの」
「……謝りに来たんや。約束破ったこと」
圭斗はため息をついた。
「別に誤ることないよ。あんな昔の約束、忘れてたからって怒るほうがどうかしてるだろ」
「透兄には怒ったんだろ?」
と、透夜。
「透さんはあの時中学生だったじゃん。一緒にすんなよ」
「……俺は、忘れてたんやない。圭斗の12歳の誕生日までに迎えに行く――ちゃんと憶えとったんや。せやけど、そん時俺は、圭斗を特別やとは思ってへんかった。時間が経つうちに、誠太や透夜と同じ、ただの幼なじみとしか思えんようになってたんや」
圭斗が手を止める。
「じゃあ、なんで戻ってきたの。わざわざ水景受けようとしてんのはどうして」
「それは、…………………………今は、言われへん。そのうち、俺の中で整理がついたら話す。あー、そん時になったら、聞いてくれるか?」
「どうだろうね。そのときにはジュンのことなんかどうでも良くなってるかも」
「圭斗!」
透夜が怒鳴った。「おまえいい加減にしろよ。潤だって謝ってんじゃねーか。なんでおまえはそう心が狭いんだよ!」
「こっちの高校受けんのにわざわざ俺のこと口実にしてんだろ。いいじゃんよ、ちょっとくらい冷たい物言いしてみたって」
「……してみただけ?」
「あたりまえじゃん、俺は心のあったか〜〜い人間なんだから」
「心のあったかい奴があんな意地悪言うかよ……」
「良かったね〜、圭斗」
誠太が笑う。「いつもだったら殴られてるよ。透夜短気だから」
「圭斗。……怒ってないんか?」
「そりゃね。だって怒りどころがないもん。俺だってジュンを特別だなんて、これっぽっちも思ってないから」
笑顔で言われて、潤はかなり落ち込んだ。
潤は帰っていった。次に会えるのは入試のときだろう。願書は郵送するらしい。
「せっかく仲直りしたのにね。さみしい、圭斗?」
新横浜駅で彼を見送ったあと、誠太は圭斗に聞いた。圭斗はフイと横を向いて、
「べつに。そもそもけんかなんかしてないじゃん」
「それより圭斗、おまえはどうするんだ?」
透が声をかける。「あのこと決めたのか」
「………………」
圭斗はむっとした顔で透を見上げた。――まったく、覚えていて欲しいことは忘れるくせに、忘れて欲しいことは覚えてるんだから。
「今夜おじさんのところへ行って返事をするつもりです。結果を知りたいのなら、明日お話します」
「そうか、わかった」
「なんのハナシ?」
「なんでもない」
圭斗の答えが不満だったのか、誠太は口を尖らせ、透に八つ当たりした。
「帰る前に透兄のおごりでそこのケーキバイキングいこっ」
「え゛――おいっ!?」
透の抗議の声も虚しく、透夜と圭斗は快く提案に同意した。
「やっぱり水景受けることにしたのか」
阿倍は圭斗の頭をくしゃりと撫でた。公立にするつもりだったんだけど、と照れ隠しなのか、圭斗はまだもごもご言っている。
そうなるのではないかとは思っていた。実のところ、圭斗にはあまり金銭の心配をする必要はない。金がないと言っては、自分の希望を言わないことの言い訳をしていただけなのだ。
いい傾向だ。坂河葵とともに病院で襲われてから、圭斗は自分を罰するように日々を過ごしていた。幸せになることがいけないことだとでもいうように。
圭斗にあらゆることを教えた坂河葵。彼の存在は圭斗の中では絶大なものだ。それを変える者が出てきた。彼らに寄りかかるのも圭斗にとっては決して悪いことでない。彼にはまだそれが必要なのだ。たとえそれが昔の幼なじみたちだとしても、今の圭斗に並んで立っているのなら過去ではない。坂河葵が圭斗にとってどんなに大事なものでも、彼はもう過去でしかないのだ。
(過去か……)
自分も、そうなのかもしれない。圭斗にまとわりついた、過去のかけら。自分が圭斗のそばにいるから、圭斗はいつまでも坂河葵のことを忘れられない……?
「圭斗」
「はい?」
阿倍を見上げる、圭斗。親に甘えているような、幼い表情。それが阿倍を躊躇わせる。自分が言おうとしていることは、圭斗にとっていいことではないかもしれない。
だが、それは圭斗自身が決めることだ。
「おまえの親から、連絡があった」
「え……?」
圭斗の顔が不安に翳る。「なんて……?」
「養子の話、……やっぱりもう少し待ってくれって」
「……………………」
大きく瞠られた瞳が困惑に揺れる。
「どう、して」
「さあな。ただ――考えられる理由は、あんまり多くないだろう?」
ゆっくりと頷く、圭斗。力が抜けたような笑顔になった。