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終章・スフレに蝗の佃煮事件
「お帰り、透兄」
病室のベッドで目覚めた透の顔を、従弟の根岸透夜が覗き込んでいた。
「おー……」
「ところでさあ、透兄」
透夜の隣の家の平内誠太が恨めしそうに言った。
「お土産は?」
「なんで手ぶらで帰って来るんだよぉ」
「おまえらな……」
ボーっとする頭を振りながら、透は起き上がった。何か忘れている。そもそも、どうしてこんなところに――
「……ぁあっ、圭斗!」
大声を上げて部屋を見回した。平内総合病院の一人部屋だ。
「誠太、圭斗は!?」
しかし誠太は「え」という顔をしている。
「おとなしく寝てろよ、透兄」
透夜が言った。「しかたねーよ、圭斗は。透兄はさっさと怪我直すことだけ考えてろよ」
「しかたない? なんのことだよ。――まさか」
――あの雪の中で、圭斗は泣いていた。
「また降りだしたな……圭斗、そこの木のところでちょっと休むか」
透の言葉にのろのろと顔を上げた圭斗は、違う方向を向いて、小さな小屋を見つけた。
その山小屋は使う者がいないらしく、何もなかった。屋根があって雪が吹き込んでこないだけ外よりまし、という程度のしろもの代物だった。
中に入るなりグッタリと座り込んでしまった圭斗は、顔も袖口から覗く手も、すっかり体温を奪われて色を失っている。
「大丈夫か?」
どう見ても大丈夫ではないのだが、声をかけずに入られない。
「さむ、い……」
つぶやいた圭斗を後ろから抱くように座ると、彼は安心したように力を抜いて体重を預けてきた。
「――――ごめんなさい」
しばらくして、圭斗が掠れた声で言った。何のことかと思っていると、
「あの、今回のこと……」
「ああ」
そのことか、と透は頷く。「おまえのせいじゃないだろ。つまり――佐東さ、佐東が勝手に人違いしたんだから」
しかし圭斗は、弱々しく首を振った。
「俺が、ここに来なければ良かったんだ……透さんにも、迷惑かけて……」
「違うだろ! ――おまえをここに連れてきたのは阿倍さんだし、俺はおまえにカリがあった。おまえが責任感じる必要なんてどこにもないだろ!? 悪いのは……そう、佐東だ」
「もういいや……透さん、俺を、置いていって……」
「……圭斗? なに言ってんだよっ?」
揺すってみたが、圭斗はうわごとめいた言葉を続ける。
「もう……帰るとこもないし……」
「おい、圭斗!」
帰るところがない? まさか、昨日の朝大橋に言われたことを真に受けているのか? ――ということは、圭斗は阿倍さんと暮らしているのか?
透は圭斗の小さな頭を抱きしめた。彼の涙で手が濡れた。
「大丈夫だ、圭斗。阿倍さんのところに帰れないなら、おれのところに来ればいい。そりゃ狭い独身寮だけどさ。おれのとこが嫌なら、透夜のとこでも誠太のとこでも。おまえに行き場所が無いなんて、そんなこと、絶対にない。だから、大丈夫だ、圭斗――……」
翌日、つまり雪の中に落ちた二日後、透は職場復帰――というほど大層なものでもない――を果たした。
朝、透に最初に掛けられた言葉はやはり、
「お土産は?」
だった。それも一人や二人ではなく、刑事課の人間全員が。
――腕吊ってる後輩になんて薄情な……
不平を言っても聞いてくれる人たちではない。透は諦めの息を吐きながら自分の椅子に沈み込んだ。その途端、課長がおいでおいでをする。課長は、唯一透を「根岸」と姓で呼ぶ人間だ。もっとも、他の人たちから名前で呼ばれるのはこの上司のせいなのだが。
「何かご用ですか、根岸課長」
「うん、今日の夕飯のことなんだがな」
いきなり私事か。透は不真面目な父親を睨んだ。
「たまには帰ってきて一緒に食え」
「いやだ」
冗談じゃない。一ヶ月前に帰ったとき、この父親は寝ている一人息子の顔に油性ペンで落書きをした。翌朝目を覚ました透がいくら顔を洗ってもそれは落ちず、同僚たちにひどく笑われた。こんなことが一度や二度ではない――今度は何を企んでいる?
「心外だな、透。誘っているのは俺じゃなく母さんだ」
それじゃなくたっていたずらはするだろうがよ。
「その腕じゃ何かと不便だろう。完治するまではうちで生活しろ」
「……………」
「遠慮なくこの父に甘えていいんだぞ」
「絶対にいやだ!!!」
どうしてそんな恐ろしいことを笑顔で言うんだ、この親父は。
「どうしてそんなひどいことを力いっぱい言うんだ、透。寂しいじゃないか」
ひどいのはどっちだ。――なんてことを口に出してしまうとどんな恥ずかしい目に合わされるか分かったものじゃないので黙っておく。
きらん。
課長の目が怪しく光った。何か企んでいる。
その時、透は廊下から呼ばれた。制服の婦警さんが来客を伝えてくれた。
そこに立っていたのは、
「圭斗!?」
「え……」
透の驚きぶりに、圭斗はうろたえたようにあとずさった。
「あ、いや、気にすんな。びっくりしただけだから」
「…………」
本当に? と目で訊いてくる。頷いてやると、圭斗はほっと息を吐き出した。
「無事だったんだな、圭斗。よかった。おれはてっきり……」
「てっきり?」
圭斗が小さく首をかしげる。透は慌てて、なんでもないと手を振った。てっきり、死んでしまったと思っていた、なんていえるわけがない。
「ああ、いや、病院にいなかったからさ」
「あ、それはおじさんが……」
「阿倍さんが迎えに来たのか? よかったじゃないか」
圭斗は少しうつむいて、嬉しそうに口元に笑みを浮かべた。しかし透が目を覚ます前に連れて行くことないだろうに。透夜が言ったのは、「もう帰ったからここにいないのはしかたがない」ということだったのか。
「あの、それで、透さんにお礼がしたくて」
圭斗は持っていた紙袋を持ち上げた。
「……ホントは、引っ越し先にオーブンがついてたんで試したかっただけなんですけど」
「ははっ、そうか――引越し!? 阿倍さんのところから?」
「〜〜ていうか、部屋が見つかるまで居候させてもらってただけなんです、もともと」
「…………そうか」
「やあ、圭斗くん。中へお入り」
いつの間にか背後に立っていた課長が圭斗の肩を抱いて言った。
「え、あの……」
圭斗は戸惑ったように透を見た。
「入ろう、圭斗」
透は言った。いつまでも廊下で話し込むことはない。
圭斗を自分の椅子に座らせておいて、紙袋を開く。はじめからここに持ってくるつもりで焼いたらしく、刑事課の人数よりも大目のスフレが入っていた。早速お茶を入れる(もちろん透が)。
「大きくなったなあ、圭斗くん」
圭斗の頭を、課長が笑いながら撫でている。圭斗は困惑した表情で課長を見上げ、くすぐったそうに下を向いた。
透は自分の分のスフレにかぶりついた。透の分だけ別に包装してあったのだ。――うまい!
「……ん?」
妙な歯ざわりがした。ついで、スフレとは全く違う味。
見る。
「………!?」
詰め込まれていた。透の最も嫌いな物が。
蝗の佃煮が。
「あ、透さん、寝言で『う〜ん、蝗の……佃煮だけはぁ……』って言ってたから」
圭斗は全く悪意の感じられない顔で言った。「好き嫌いはいけないと思って、一つだけ作ってみました」
「結局、どういうことだったんですか?」
交換させられた蝗入りスフレをしかめ面で食べながら、圭斗が言った。
「殺人で逮捕されたの、大橋って人だったじゃないですか。佐東さんは自分が殺したって言ってたのに」
「ああ、それな」
透が説明する。
「内島は頭を殴られた後、胸を刺されて死んでいた。つまり殴ったのが佐東で、止めを刺したのは大橋だったって訳だ。それをあとから知った佐東は、“岐杉朝依”のために何かしたかった。内島を殺せなかったけど、自分がやったことにしたかった。だから遺体を圭斗の部屋に移動させたんだ。自分の存在を、おまえにアピールするために」
「……迷惑でしかないのに、そんなこと」
「そうだよな、そもそも人違いだったわけだし」
透は言った。彼にとって、どんなジャンルであろうと芸能人という人種は現実ではないのだ。佐東の行為を、人違いによるものだと信じて疑わない。
「大橋さんは――どうして内島を殺したのか、自分ではいわなかったらしいけど、調べたらすぐに分かった。十年前内島に、その、襲われたらしいんだ。圭斗がされたみたいに。でもおまえのときと違って、未遂じゃなかった」
そのことでずっと苦しんでいた大橋は、偶然あのペンションで内島と再会し、殺意を持った……。
「で――やばかったらしいんだ。大橋さん、緑山さんが趣味で持ってたボーガンで春日さんたちを脅して。彼女の話じゃ、針……何とかっていうとこの目つき悪くて背の高い男が助けてくれたんだって」
「ハリ、ですか」
圭斗が泣きそうに顔を歪ませて微笑した。
「その人が、おれたちのことも助けてくれたんですよね……」
そういって圭斗は、約十年ぶりに透の前でにっこりと笑った。
花屋のにーさんの孤独な闘い ファイナル
長かった……
彼は帰ってきた。彼の街に。
彼はげっそりして、何キロも痩せた気分だった。
しかし、がんばれ、自分! あとはアパートに帰るだけだ。
しかし……遠い。
「ここからなら……」
彼はアパートよりは近い、彼のもう一つの寝床へのろのろと向かった。
「あ! 黒竜!」
ビルに入ると、数人の少年が遠巻きに群がってきた。皆感激に目を輝かせている。
「黒竜だー、黒竜だーっ! うわぁ、久しぶりに見た……vv」
「ああ、黒竜……vvv」
「近寄りたい触りたい抱かれたい……!」
みんな、小声で言っているつもりなのだろうが……。
(なんだ、この状態は)
確かにここへくるのは久しぶりだが、これは異様だ。
とにかく階段を上り目的の場所まで辿り着くと、彼は古びたソファに身を沈めた。
十数時間後目覚めたとき、彼の汗の染み込んだ服が剥ぎ取られていて、競売にかけられることなど知る由もなく――
彼は眠りの世界に墜落していった。
終章 続き
余ったスフレを紙袋に入れて圭斗が警察署を出ると、太陽が夕焼けと呼ばれるための光を雲に反射させていた。
「あの、大丈夫?」
歩いていると突然声をかけられた。振り返ると、自分と同じ年頃の少年が二人立っていた。
「足、怪我してるんでしょ?」
いかにも呑気そうな顔をしている方が言った。圭斗が戸惑っていると、つり目の少年が、
「人違いだったら悪いんだけどさ、おまえ、圭斗だろ? おれ、透夜、憶えてる?」
「そっか、いきなりじゃわかんないよねえ。おれは誠太―!」
「え?」
圭斗は二人の顔をまじまじと見つめた。
「ほ、ほんとに……??」
「へへえ、今日さ、圭斗がこの辺にいるような気がしたから、張ってたんだv」
呑気そうな顔の誠太が得意そうに笑う。
「おれの“力”ってそういうのだからぁ。“力”持ってる奴の場所が大体わかるんだ♪」
「ち、“力”?」
「あれ、知らない?」
透夜が言った。「おれら三人とも持ってるんだけど。圭斗自覚なし?」
「…………」
圭斗は紙袋を二人に押し付けた。
「なにこれ、食いモン?」
「そう、あげる」
そのまま帰ろうとすると、
「なー圭斗、今、どの辺に住んでんの?」
と、透夜が訊いた。住所を告げると今度は誠太が、
「じゃあ結構近いね。圭斗瞭歩(りょうほ)中? 何時頃終わる?」
近いうちに遊びに行くね、と言った。
「足大丈夫か? 送ってくぞ?」
「いい、大丈夫。ちょっとひねっただけだし、もうそんなに痛くないから」
「強がるなよ圭斗。ほら、透夜に負ぶさって」
え、と圭斗は後ずさった。透夜が「しかたないなあ」と笑いながら、圭斗に背を向けてしゃがむ。
「い、いや……」
いくらなんでも、この大通りでそれは恥ずかしい。
「ほら圭斗、早くしろよ」
それにしても、なぜこの二人はいきなりこんなにフレンドリーなのだろう。いや、自分もそれに応えてはいたが。
「お。俺、一人で帰れるから……っ」
二人に別れを告げて、圭斗は走り出した。
足は痛かったが、悪い気分じゃなかった。
再会の挨拶すらなかった二人の幼なじみに、逢えたことが嬉しかった。
昔のように受け入れてくれたのが、嬉しかった。
「……かわいかったね、圭斗」
「おんぶぐらいであんなに赤くなられるとこっちも照れるよな」
「しっかしなんか、イロモノっぽかったよね」
「あのピアスで余計にな」
「十年もすると、人って変わるんだね」
「でも悪く変わってなくて、よかったよな。絶対グレてると思ったのに」
誠太と透夜は、そんなことを言いながら笑っていた。