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いつかの夢1
(3月27日)
暗い部屋に戻った山波圭斗は、照明を点けぬままメガネをはずしてベッドに倒れこんだ。黒い前髪が視界を覆う。
目を閉じたところで、眠れないことはわかっていた。脳裏に焼きついた光景を夢に見るのが怖くて、あれからほとんど眠っていない。それでもここ一ヶ月位は宿主の阿倍に無理やり薬を飲まされて、夢を見ないほど深く眠っている。それなのに、疲れがたまっていく。阿倍の家で、圭斗はなにもしていない。彼を気遣ってか、阿倍は彼に家事のひとつもさせようとしない。挙句、あの男はこんな旅行まで企画した。
気持ちはありがたい。しかし今の圭斗には、すべてが鬱陶しく感じられる。
部屋の中は、しんと静まりかえっていた。そう意識した途端、背筋に寒気が広がってくる。なにが、というわけでもなく、怖い。ひどく心細い。眉間にしわを寄せて強く頭を振る。――なにが怖いというのだ。これ以上失うものも無いのに。
こんな姿を見たら、また阿倍は心配するのだろうかと、ふと思ってみる。だけど自分には、心配してもらう資格なんて無い。今の自分は、誰も信用していない。信用してはならない。頼ってはならない。
誰にも頼らずに生きていけるとは思っていない、自分のような子供は特に。今阿倍に見放されたらすぐに、死ねる。
死にたいと願っているわけではない。でも、生きているよりはずっと楽だ、とは思う。それに、ほかに償う方法を知らない。だから自分が死ぬことで喜んでくれる人間がいるのなら、ためらうことなく死ねる。
だったらなぜ、今生きているのだろう?
本当なら三年前に死んでいたはずだ。あの時の圭斗をこの世につなぎとめた男。
ばかな男。そのせいで何人の人間が死んだ? 最後には自分の命まで落として。
――うそつき。
意識しないままつぶやいていた。うそつきうそつきうそつき。あんなうそつかなければ、俺はあなたを殺さずに済んだのに。
「かわいそうに」
不意に、男の声がした。気がついたときには、誰かがうつぶせの彼の上に覆いかぶさっていた。
(いつの間に――)
確かに部屋のドアには鍵をかけていなかったけれど。
寂しかったんだね、と、耳元で男が囁いた。
「もう、泣かなくていいんだよ。おとなしくしていれば、すぐに気持ち良くしてあげるからね」
べろりと、男の舌が圭斗の首筋を舐めた。
「…………っ!?」
あまりの気持ち悪さに男の腕から逃れようともがくが、びくともしない。シャツの中にごつごつした手が侵入してくる。
圭斗の体が無意識に動いた。肘を思いっきり後ろへ引いている。腹に肘鉄を喰らった男は呻き声を上げて、圭斗を拘束している腕を緩めた。ベッドから転げるように逃れた圭斗の腕を、男の手が摑んだ。強い力で引き寄せられ、鳩尾を殴られた。
「あ――――」
息をつく間もなく、今度は容赦なく頬を張られ、後頭部を壁に叩きつけられた。
――気を失っていたのは、おそらくほんの数分。気がつくと背中の下で両手首がガムテープで背後にぐるぐる巻きにされ、口の中にはなにか布のようなものを詰め込まれたその上から猿轡をされて、呻き声すら出せない。
「じっとしていないから痛い思いをするんだよ……」
男が囁き、衣服を取り去られた圭斗の体にのしかかってきた。生臭い息を吐きながら低い笑い声を洩らす。唇が、舌が、手が、圭斗の体を這い回る。
――部屋の隅で、二つ並んだ丸いものがキラリと光った。
「なんだよ、おい。普段は鍵なんかかけないくせに」
トロンと半分閉じた目で、阿倍がドアを叩いた。
「圭斗ぉ、俺を締め出すな――」
突然、阿倍が言葉を途切らせた。表情が引き締まる。今まで酔っていたのが嘘のように見える。
殴るようにドアを叩いた。
「圭斗! どうした、返事しろ、おい!? 灰、開けろ!」
「ど、どうしたんですか?」
透は驚いて阿倍を見た。「一体――」
ガチャ。内側から鍵の開いた音がした。飛び込んだ阿倍に一歩遅れて部屋に入る。ゴキッと音がした。「テメエぶっ殺す!」バキッ、ごっ、がん、どさっ……
透が照明のスイッチを見つけて押し、部屋が明るく浮かび上がった。
***
恐慌状態で暴れる圭斗を、阿倍と二人でようやく寝かしつけたのは――それも、無理やり薬を飲ませるというやり方で――、それから三十分後のことだった。
ベッドに入っても透は、なかなか寝付けなかった。圭斗のことが頭に浮かんだ。薬を飲ませて、眠りに落ちる直前圭斗がつぶやいた言葉。
――――とゆに
(どっかで聞いたことあるんだよなぁ)
ごろりと寝返りを打つ。
そうだ、聞いたことあるぞ。結構ずっと前だ――でもいつだろう?
考えているうちに、透はいつか眠りの中にいた。
――「と〜〜〜〜〜るうぅぅっ!!」
幼なじみの長谷川海が、開けっ放しのドアから飛び込んできた。思い切り飛びつかれて、透はベッドにひっくり返った。
「な、なんだよ海――」
「きいてきいてきいてきいてきいてきいて!!」
海はいつになくはしゃいでいる。
――ああこれ、確か七歳ン時の。
「妹が生まれるんだ! 来年の七月だって!」
海の嬉しそうな顔に、読んでいた格闘雑誌を放り出し、透は勢いよく起き上がった。
「ほんとか!? すげー、いいなあ。おれは弟が欲しいんだけど、妹も……」う〜ん……
透が言うと、海はふふふ、と笑った。透を指差す。
「おれは弟、間に合ってるからぁ。妹ですっげえうれしいv」
「間に合ってる……? っておれかよ!」
ふくらせた透の頬をつついて、海はまた笑う。
「お兄ちゃんも間に合ってるからお姉ちゃんも欲しいな」ムリだけどさっ。
「……おれお兄ちゃん?」
あっという間に気分を回復した透は、ニコニコしながら海の頭を撫でてみる。
彼らはずっとこういう関係だった。持ちつ持たれつ。海は頭脳的な面での兄であり、透は体力的な面での兄であった。
この後おやつを持ってきた透の母親が見たのは、二人がお互いに頭を撫であっているという世にも奇妙な光景だった。
「で、さ。妹、名前決めた?」
「まーだ。とーさんとかーさんがいっぱい考えてる。おれが“海”だから――“山”のつく……ないか」
「じゃあ、“波”とかは?」
「あ、それいい! いかにもおれの妹ってカンジ。なんかかわいい字当ててさ」
「字を当てる? 投げるのか?」
「ちがうって。だからつまりぃ」
海は透のランドセルから自由帳と筆箱を引っ張り出した。
「透だったら、えっと、“通”かな。こうやって読みが同じ漢字を当てはめるんだ」
「へえ〜。海、もの知り〜」
――う〜ん。今思うと、なんかちょっと違う気がする。そうだよなあ、いくらかしこいったって、海も子供だったんだし。
「妹かあ……」
海が噛みしめるようにいった。その日は二人並んで、窓から見える夕日が沈んでいくのを眺めていた。
五月二十日。
「海、お母さん病院行ってくるからお留守番よろしくね。透くんも」
海の家で二人で遊んでいると、大きくなった腹を抱えて海の母親が言った。
「病院? 赤ちゃん生まれるの!?」
海が勢い込んで訊いた。彼女は息子の頭をクシャッと撫でて、
「定期健診よ。やあね、この子ったら。毎月同じこと言って」
「だってぇ」
海は上目遣いに母を見上げる。「かーさん、一人で大丈夫? おれついてってあげるよ。行こ、透」
海は右手で母の手を握り、左手を透に伸ばした。
――検診の間に新生児たちを見に来た透と海は、ガラスに額をくっつけて新生児室を覗き込んでいる女の子を見つけた。
「透おにいちゃん!」
近所に住む三歳年下の山波嶺は、二人を見つけるとパッと顔を輝かせて透に飛びついてきた。
「あのね、あれ、けーと。昨日出てきて、弟なの」
保育器の方を指差す。
「あれ? 生まれるの六月じゃなかったっけ」
海が言うと、嶺は幼いながらも美しい顔をそちらに向けて、みじゅくじなんだって、と答えた。
――そうだ、どうりで知っているはずだ。あれが圭斗だったんだ。
勢いよく、三歳になった海の妹が転んだ。
「うわあぁっ、那未、大丈夫!?」
海が慌てて抱き起こす。泣き出した那未の元に、透の従弟の透夜とその隣の家に住む誠太が寄ってくる。
「なみちゃん、いたい?」
「これあげるからなかないで」
三歳児は三歳児に任せようか、と思ったとき、滑り台の上で泣き声があがる。
「あー、あやぁ」
誠太が危なっかしい足取りでひとつ年下の弟のほうへ駆けていく。「はい、あやたにもおはなあげる」
「うわあ、けーと、ちょーかわいい」
滑り台の下ではやはり三歳の、近所に住むジュンが、さっきみんなと摘んできた花でせっせと圭斗を飾っている。
「……透。おれ、保育園の先生になった気分だよ」
「向いてるんじゃねーの、海なら」
「透こそ」
子守りを押し付けられた二人は揃って苦笑した。
***
朝になって、阿倍が突然帰ると言い出した。圭斗がまだ目を醒ましていない時間にだ。
「なんでまたそんなに急に」
「急に用事が入ってな。というわけで、圭斗は置いていくから、よろしく頼むよ。これ俺の連絡先」
「そんな! 頼まれたって困りますよ。大体、夕べあんなことがあったばかりだってのに――」
「そうか? 困るのか? 本当に?」
即座に訊き返された透が考え込んでしまった隙に、阿倍はとっとと、本当に帰ってしまった。
(な……なに考えてんだあの人は!?)
信じられない思いで頭を振りつつ、渡された鍵で圭斗の部屋に入る。
朝食の時間はとっくに過ぎているのだが、圭斗が起きる気配はない。
壁に寄せてあるダブルベッドの中で、圭斗は壁を向き背中を丸め、胎児のように手足を縮めて眠っていた。これでは疲れなど取れないのではないか。透はベッドに腰掛け、枕に髪の毛を散らばせた圭斗の頭に触れた。
「なにに怯えてるんだよ、おまえ。そんなに力入れてさ……」
心当たりがないわけではない。透は幼いころの圭斗を、圭斗の置かれていた環境を知っている。しかしそれだけではない気もするのだ。圭斗を怯えさせているのは それだけではなく、透の知らない何か……。
「阿倍さんは知ってんのか? おれに、話してくんねえかなぁ。話してくれればできるだけ力になるし。昔はおれのこと頼ってくれたじゃん。な?」
頭を撫でながら、眠っている圭斗に話しかける。寝顔は昔のままだ。
「――――ん……」
透の声に応えるように圭斗が小さく身動きした。起きる様子はないが、少しだけ表情が和らいだように見える。
透はそのまましばらく、圭斗の頭に手を載せておくことにした。
***
眠りから醒めると、何人かの寝息と何人かのいびきが聞こえてきた。まぶたを開けば目の前には、自分より一ヶ月ほど先に生まれた幼なじみの顔。彼に抱きしめられて触れたところから体温が伝わってきて、少し暑い。でも、心地良かった。父親にも母親にも、前にこんな風に抱かれたのはもういつのことだったか思い出せない。――実際にはほんの一週間。それでも、まだ三年も生きていない圭斗には、とても長い時間だ。
いつからか、母から避けられ、与えられるようになった父からの暴力。その原因がどこにあるのか、それがなんなのか。そんなこと、圭斗の知るところではない。
「ジュ、ン」
揺すってみたが、圭斗を宝物のように抱いた男の子は起きない。やっとの思いでその腕から抜け出すと、ケート、と声をかけられた。すぐ横でいびきをかいていたとぉるおにいちゃんが起き上がっていた。
「どうした? お腹空いたのか?」
圭斗は首を横に振る。
「じゃあトイレか」
小さくうなずくと、彼は「よいしょ」と当たり前のように圭斗を抱き上げた。
このおにいちゃんはやさしい。もう一人のおにいちゃんもやさしいけど、圭斗はこっちのおにいちゃんのほうが好きだ。大きな体に、腕に、手に抱かれるのが大好きなのだ。包み込むように抱きしめてくれる、その体はいつも熱いくらいで、顔を見上げればいつだって太陽のような笑顔を向けてくれる。
部屋に戻るときにもう一度抱かれる。歩みのために上下に揺れる、その心地よい振動が、幼い圭斗を再び眠りに引き込んだ。
***
なんだかぽかぽかする。
目を開けると、目前に若い男のしまりのない笑い顔があった。圭斗は驚いた拍子にウッと呻いてしまった。
「やっと起きたか。朝飯もう冷めてるな」
圭斗の顔を覗き込んでいた男が体を起こす。
「……だれ」
起き上がりながら質問する。夕べ見たような気もするが、どこの誰かを認識していない。
「なんだよ、冷たいな」
男は拗ねたような表情をしてから、また笑った。
「おれ、覚えてない?」
「……昨日会いました」
正確には、会ったような気がする。あれ、でもあれは“会った”っていうのか?
「おっきくなったなぁ、おまえ。なんとなくおまえだけは、あのままでいるような気がしてたんだけど」
呑気そうに笑う男が、なんだか妙に腹立たしい。本当に、誰なんだろう、これは。どうしてここにいる?
「阿倍さんがさ」
男は言った。「なんだか急な用事が入ったらしくて、帰ったよ。今朝早く」
え、と聞き返す間もなく、
「でも心配すんなよ。おれがおまえのこと頼まれたから。うれしいだろ? おまえ昔からおれに懐いてたもんな」
むかし? むかしから? じゃあ、この人は――
「とぉる、おにいちゃん――?」
男はにっこりと笑った。
「だからここにいる間はおれが保護者代わりってことだから、よろしくな」
握手でもしようかと伸ばした透の手を、圭斗はパシッと音立てて払い除けた。
「圭斗……?」
「…………ない」
どうしたのだと訊きかけた透を睨みつけてきた。
「あんたなんか知らない……!」
これはなかなかショックだった。知らないだって? そんなはずないだろう。だって今、おれの名前を呼んだじゃないか。昔と同じ呼び方で。覚えているはずじゃないか。
「知らないはずないだろう。ちゃんと覚えてんだろうが」
なんでそんな泣きそうな顔しながら、そんなこというんだよ?
「おれなんかしたかよ。そりゃ昨夜は無理やり薬飲ませたりして、嫌な思いさせたかもしれないけどさ。それは謝るよ。だからそのことで怒ってんなら――」
「うるさい。出てけよ……っ」
ボスッ。
「いやだ」
枕なんて投げつけやがって。おれはいつまでも笑っていられるほど、気が長いわけじゃないんだぞ。透は圭斗の腕を掴み、力ずくでベッドから引きずり出した。
「痛ぃ……っ」
圭斗が小さく悲鳴を上げるのにもかまわず、
「ほら朝飯食いに行くぞ。おれもう腹ペコなんだからな。ったくなんだよこの腕、全然肉ついてないじゃねえか」
「…………」
圭斗はもう逆らわなかった。透に腕を引かれ、のろのろと食堂に向かう。
歩きながら、圭斗は透の大きな背を睨みつけていた。
花屋のにーさんの孤独な闘い
(3月28日。夕方)
山の天気は変わりやすい。
今A山は、吹雪いていた。
五メートル先が見えない。
なにより、寒い。
(ふざけんなよ、冗談じゃねえ。なんでこんな日に花なんか届けなきゃなんねえんだよ)
死ぬ思いで届け先に着いたって、商品を受け渡したらすぐに帰るしかないのだ。こんな天気の山の中で、休む場所なんかありはしない。畜生、帰ったら店長に中華おごらせてやる。彼が一番旨いと思うのは、どこの店のものでもないのだが。
「ああ――」
悪態を吐こうとして唇を開くと、口の中が一気に冷えた。
(ああくそっ。なんで俺がこんな目に……)
寒いのは嫌いなんだ。