
忘れ物
(3月28日。朝)
「よう、置いてきぼり」
朝食をとっていると、泊り客の一人、大橋が圭斗に声をかけた。見たところ透より二、三年上だ。
「そういうこと言わないでくださいよ」
うつむいたままの圭斗の代わりに、透が抗議する。
「阿倍さんは用事があって仕方なく帰ったんですから」
「だったらどうしてこいつはここにいるんだ? その阿倍さんとやらは最初からそのつもりだったんじゃねえの。飽きたオモチャを捨てに、こんなとこまで来たんだ」
「な――」
あまりの言い草に透は言葉を失う。大橋はニヤニヤ笑いながら圭斗の肩に右手を置いた。耳元に顔を寄せ、
「どうせやることなくて暇だろ。今からおれの相手してくんない? 只とは言わねえからさ」
左手が圭斗のメガネを奪い、右手が胸に滑り込む。びくっと震えた少年の躰を後ろから抱きすくめる。
「…………っ……」
「なあ、折角キレエなカオしてんだからさ、あんなオッサン一人に飼われてるんじゃもったいねえだろ。女みたいに股開いて相手のされるままにするだけで、一晩に何万と稼げるんだ。やること一緒なら、そっちの方がオトクだぜ……?」
「やめてください!」
透が大橋を圭斗から引き離した。
「なんてこと言うんですか。圭斗はそんなんじゃありません! 阿倍さんがこいつを置いてったのはおれがいたから、おれが圭斗と幼なじみだからおれに任せて――」
「だったら」
大橋が、急に真剣な表情を見せた。「ちゃんと守ってやれよ、あんたが」
そう言って食堂から出て行ってしまった。
「なんなんだ、ったく。おい、圭斗――」
ちゃんと嫌がれ、と言おうとして、やめる。圭斗はうつむいたまま、真っ青になって震えていた。
透はムッと眉を寄せた。こいつは小さいときとちっとも変わっていない。あのころの圭斗も、どんなに悲しくても痛くても、辛くても、何も言わずにただうつむいて、震えていた。お気に入りの大きな熊のぬいぐるみにしがみついて、声を押し殺して泣くのだ。小さな子供のくせに、自分から誰かに頼ろうとはしない。小さな胸に大きな苦しみをしまい込んで、すぐそばにいる透たちにはなにもなかったかのように笑う。いや、笑うことすら減っていってはいなかったか。
あれから、圭斗になにがあっただろう。再会してからの圭斗は、人とろくに口も利かず、もはやにこりともしない。考えてみれば、別れてから十年の月日が過ぎている。
理不尽な暴力や恐怖に逆らうこともしない人間に育ってしまったのか、圭斗は。あるいは、逆らうことができないように育てられた、いや、されたのか。
ただひとつ、たぶん幸運なのは、感情を封印していないこと。圭斗はまだ、いいことがあれば嬉しいと思えるのだろう。そう思ったからこそ阿倍だって、彼を旅行に連れ出したりしたのだ。
透は圭斗の頭をぐいと引き寄せた。手のひらに収まりそうに小さなそれを自分の胸に押し付けて、
「しかたないから、“ぱぱ” の代わりくらいはしてやるよ」
「ぱぱ?……」
変なものでも見るように、圭斗はぼんやりと透を見上げた。
圭斗には、思い出したくない記憶がある。それはけしてひとつではないが、今目の前の男に揺さぶられているのは、その中でも一番昔の記憶。三歳より小さいときのものだ。
映像としてはっきり記憶にあるわけではない。ぼんやりとした感覚の記憶。
そのときの父親の笑顔は、紛れもなく圭斗に向けられていた。そのときの彼よりも大きなクマのぬいぐるみ。抱き上げられたときの温かさ。安心感。
ばかみたいだ。そんなことを覚えているなんて。忘れてしまえば憎めるのに。恨めるのに。そうすればきっと、こんなに苦しくはないのだろうに。
「ぱぱ」と名づけた、父親からもらった大きなクマのぬいぐるみ。大事な大事なものだった。でもあれも、もう――
忘れろ。自分に暗示をかける。父さんはずっと、優しくなんかなかった。憎め憎め、恨め。そうしたら俺は、今より少しは楽になれる。でも……
でも、本当に? いくら怨んだって、時間が戻るわけじゃない。失って、取り戻せるものなんてない。なにも変わらない。俺はなにひとつ、変えることなんてできない。
だからせめて、これ以上何も失わないように――
花屋のにーさんの孤独な闘い
3月28日。夜)
ようやく、前方に建物の明かりが見えてきた。彼はバイクのスピードを上げた。
もしかしたら、今晩泊めてくれるかもしれない。いつもなら見ず知らずの人間の家に泊まるなんて死んでもごめんだ。だが今回は事情が事情だ。死ぬよりはましだ。頼み込もう。いざとなったら力尽くででも泊めてもらおう。
バイクを止め、花束を持ってチャイムを鳴らす。
「お届けもので〜す……」
人が出てきた。
「濱野タカ子様はこちらでよろしいでしょうか」
「濱野さん? 濱野さんはお隣ですよ」
「え?……失礼しました……」
「ご苦労様です。本当に」
相手は気の毒そうな表情を浮かべて玄関のドアを閉めた。
隣? 隣だと? 隣ってどこだよ。
見渡す限り何もないように見える雪の中を、彼は絶望的な目で見渡した。