
約束
(3月28日。夜)
夕食に、圭斗は出てこなかった。あれから五時間が経っている。まさかまだ泣いているわけではないだろうが――
(飯持ってったら、ハナシしてくれるかな……)
透が圭斗の分の食事をお盆に載せ始めたとき、玄関のチャイムと、バタバタという足音がした。玄関に向かった緑山と入れ違いに、食事の後部屋に戻っていた水上のり子が駆け込んできた。
「ちょっと、大変! 誰か怪我してるみたい。ドアの下から血が……!」
「え――」
透は腰を浮かせた。
「大変じゃないですか! 緑山さんに知らせないと」
そこにちょうどよく緑山が戻ってきた。血相を変えた透とのり子を見て、
「どうかしました?」
透から事情を聞くと、「血ってなんですか! やめてくださいよ」
悲鳴じみた声を上げた。
「いいからさっさと誰かなんとかしてよ!」
「うわ、水上さん落ち着いて……」
透はパニック状態ののり子をなだめながら、
「とにかくその部屋がどこなのか教えてください。緑山さん、救急箱用意しておいてください。おれ見てきますから」
言うと、急いで食堂を出て行った。
内島が、彼の部屋で死んでいた。部屋の真ん中、ベッドの上に内島の足がある。そこからずり落ちた頭と胴体からおびただしい量の血液が、もう事切れている体からまだ溢れ続けている。
「う……」
生死体は初めて見る。職業柄覚悟はしていたつもりだが、こんなところで出くわすとは思わなかった。
「なーんか、二時間ドラマみたいな展開だな……」
なんてことを言っている場合じゃない。警察に連絡しなくては。
しかし。
警察から返ってきた答えは、「雪がひどくて、とてもそこまで行けない」というものだった。天気予報では、少なくとも明日の朝までは吹雪くといっているらしい。
「とりあえず緑山さんに、部屋を閉めてもらって……」
自分にできることはないのだろうか。透は考え込んだ。事故や自殺ではない。内島は明らかに殺されている。こんな天候だ、犯人が外から侵入したとは思いにくい。とすれば、犯人はこのペンションの中にいると考えるのが自然だ。だったら――でも――……
いや、悩んでいる場合じゃない。とにかく、おれは刑事なんだ。やるべきことは。
「……あ、もしもし、親父? おれ――え、もう知ってんの? ――そう、だからおれに――は!? なにもするなって……」
新米刑事の透、上司である父親になにをしたらいいのか訊こうとしたところ、釘を刺された。
「で、でも刑事が居合わせて何もしないなんて……」
『後で所轄の人が迷惑するんだ。おまえは昔っからそそっかしい上に乱暴なんだから、おとなしくしてろ。大体な、刑事課に配属されてまだ一週間なんだぞ、おまえは。その間なにやってた。ずっとデスクワークだったろうが』
「う……でもおれのせいじゃないだろぉ。ずっと平和だったんだから……」
そう。奇跡としか言いようのない一週間。透の勤めるH署の管轄内では何の事件も起こらなかった。
『いいか、透』
珍しくきりっとした声で、父は言った。
『事件のことはどうでもいい。それよりおまえが今すべきことはほかにあるだろう』
「ほかに?」
『おまえには圭斗くんに対して義務と責任がある。わかるな』
「は――なんで圭斗のこと……?」
ブッ、ツー、ツー……
「な、なんてオヤジだ……」
突然電話を切られたことに呆然とした透だが、父がなにを言わんとしていたのかは、はっきりと理解していた。
食堂に戻ると、圭斗以外の泊り客が集まっていた。緑山が不安げに、「どうでした?」と訊く。透は手短に内島が死んでいたことを告げた。
「あの、それより圭斗は……?」
「それより、ね」
しのぶがつぶやいた。「圭斗チャンなら一回呼びに行ったけど、出てこなかったわよ」
「そうですか、やっぱり……あれ? 春日さん、圭斗と知り合いなんですか? 『圭斗チャン』って……」
「まあねー――でもあの子、まだわたしに気づいてない気がするんだけど」
しのぶが低く笑った。
「あ、そ、そうですか……」
透はしのぶから一歩離れた。
「け、圭斗に飯持ってかなきゃ……」
「そうね。行ってらっしゃい」
しのぶ の無表情な声に見送られ、透は食事を持って圭斗の部屋に向かった。
ノックして声をかけても返事はなかった。中へ入るとまたもや明かりが点いていない。
「もう寝てんのか?……」
「……なにかご用ですか」
明かりをつけた透を一瞥して、圭斗が冷ややかな声で言った。
「なにかっておまえ、飯も食いに来ないから持ってきてやったんじゃないか」
「そんなこと頼んでません」
「おまえな」
「構うなって言ったはずです!」
「了解した覚えもないな」
圭斗の白い頬が紅潮していく。また泣き出してしまいそうに見えた。
透は、圭斗が摑んだ枕を投げる前にすばやく奪うと、力いっぱい投げつけた。
もろにそれを受けた圭斗はベッドにひっくり返った。
「なにすん……っ……」
透がその上にのしかかると、逃げ場をなくした格好の圭斗は硬直してしまう。
「ごめんな、圭斗」
できるだけ優しく言いながら、透は圭斗の髪の毛を撫でた。
「さっきのこと、それだけじゃなくて、今までのことも全部、ごめんな。約束のこと、今すぐとは言えないけど、必ず思い出す。だから」
透は圭斗を抱きしめた。細い。少し力を入れただけで簡単に折れてしまいそうな体。
「だから――チャンスをくれ。もう一度だけ、おれを信じてくれないか。せめて、ここにいる間だけでも」
圭斗は首を横に振った。
「とぉるおにいちゃん――」
彼は掠れた声で言った。
「どうして、俺のこと嫌いにならないんですか……オレは………」
そうか、と透は納得した。圭斗は透に嫌われようとしていたのだ。なぜかはわからないが。でも、そうなのだ。
あるいは圭斗が、透を嫌いたかったのかもしれない。
(でもこいつは、ほんとはおれを好きなんだ――)
昔と同じように。
ごめんなさい、と圭斗がうわごとのようにつぶやいた。震えている。かたく目を閉じて、搾り出すようにつぶやいている。やがて――
殺してくれと、圭斗は言った。
花屋のにーさんの孤独な闘い
「本当にごめんなさいね。面倒をかけてしまって……」
濱野タカ子はすまなそうに、しかし嬉しそうに言った。
「主人が寝込んでしまって、困っていたのよ。若い男の人がいてくれると本当に助かるわぁ」
花の贈り主である夫が、この別荘の屋根の雪下ろしで腰を痛めてしまったのだ。
「こうなると女一人も同然でしょう。強盗にでも入られたときに、ベッドから起きられないじじいがいたところでねぇ」
「ハハハ……」
彼は乾いた笑い声を立てる。――いいさ。どうせ、どうせこのばばあに引き止められなかったらきっと帰り道で遭難していたのだ。店には電話したし、明日はほかのバイトも入っていない。居るだけでいいってんなら居てやろうじゃないか。飯も出るし風呂にも入れる。予備のベッドもある。少しくらいの雑用ならしてやる。
彼は内心で嘆いた。俺はなんてお人好しなんだ。人と関わる気分じゃなかったのに。――こんな雪の中、年寄り二人見捨ててなんて行けないじゃないか!
本当に――畜生。