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覚醒
忘れようと、すればするほど記憶は鮮明に蘇ってきた。
ついこの前まで自分がいた場所。そこにいた、あたたかい、優しい人たち。かりそめの、オレの「家族」。そこでオレは笑うことを思い出せたし、学校にもちゃんと行くようになった、恋もした。
幸せだったから、それより前のことなんか、覚えている必要がなかった。だから無意識のうちにその忌まわしい記憶を封じ込めていた。すべてをきれいさっぱりというわけにはいかなかったけど、守られることのなかった約束と、その約束をした人たちのことは忘れることができていた。
だけどそれも、永遠ではないのだと思い知った。
あのときオレにできることはもっとあったはずだ。オレの限界はあそこじゃなかったはずだ。ほかの人は持っていないこの“力”。ほかのどの人よりも強いはずのこの“力”を、あのときオレは使わなかった。そのせいで、あの人は死んだんだ。オレがあの人を殺したんだ。
大事な人。俺の世界をひっくり返してくれた人。あの人が俺に見せてくれた世界。それまでとはまったく違う、すばらしい世界。もう戻ることのできない、優しい人たちのいる世界。
あのときから、忘れていたことがどんどん頭の中に溢れてくる。目を閉じるとあのときのことが蘇ってくる。
幼い日の約束と、限りなく今に近い日の過ち。何度も裏切られ、何度もあの人が死んでいく。
怖い。怖くて怖くて、いつか眠ることを拒むようになっていた。
だけど――
***
目を開けたとき、彼は自分が夢の中にいるのだと気づいていた。
完全な闇の中で、それなのに自分の体だけはくっきりと浮かび上がっている。
粘り気のある、腐った臭いのする空気が全身に絡みついてくる。
夢であるはずなのに、ひどくリアルな腐臭。あまりの不快さに顔をしかめる。肺に流れ込んだ空気が細胞を焼いた。
「……っあ――」
がくりと膝が折れる。苦しい。息ができない……。
横倒しになりながら、圭斗は視線をさまよ彷徨わせた。しかし誰もいない。いや――誰かが歩いてくる。
彼は力の入らない腕を必死に伸ばした。たすけて。名を呼ぼうとして、その人が誰なのか気づく。
迷いのない蒼い光に包まれたその人は圭斗に気づいた様子もなく、彼の横を通り過ぎていった。
また、誰かが歩いてきた。今度は圭斗に気づいた。圭斗の手を、ためらいなく踏み潰してそのまま去っていった。
もう指一本だって動かせない。ただ、半開きのまぶたから、涙がとめどなく流れる。
――おとうさん。
おとうさん、おねがい、もどってきて。たすけてよ。
鼻を突く腐臭。
ああ――
彼は気づいた。これは、俺の臭いだ。本当はもうとっくに死んでいて、この体は腐っているんだ。
(なんだ……そっか……)
じゃあもう、苦しまなくていいのか――
「圭斗」
すぐそばで声がして、腐っているはずの彼の体は大きな腕に抱き上げられていた。
「もう大丈夫だ。俺が守ってやるから。もうなんにも、怖いことなんかないからな――」
だれ……?
――とぉるおにいちゃん……?
とゆに。
自分で失望してしまうような小さな声だったのに、目の前の大きな背中の持ち主は振り向いて、幼さの残る顔をほころばせた。
大きなてのひらで自分の手を包まれて、圭斗はその手で彼の服の裾を握りしめていたことに気づく。透が振り返ったのは圭斗の声が聞こえたからではなく、突然服を引かれたからだったのだ。
圭斗はあわてて手を引っ込め、自分の図々しさに絶望した。こんなことをしたら、嫌われてしまう――
透の手が、圭斗の小さな頭を包み込むように撫でてくれた。それだけで、圭斗の小さな胸はあたたかな安心感でいっぱいになった。抱き上げてくれたから、落ちないようにと、遠慮なく抱きつくことができた。
***
「………………」
茶色の、木の板でできた天井が見えた。どうもおかしい。昨夜はちゃんと自室のベッドで寝たはずなのに、ここは談話室のソファの上のようだ。圭斗は毛布を下に落とさないように注意しながら起き上がった。
(ヘンな夢見たな……)
がしがしと頭を掻きながら小さくあくびをする。
(悪い夢だかいい夢だかはっきりしろっての)
自分の見た夢に文句を言って、腹の上で伸びをしている灰に「おはよ、灰」とキスをする。首輪代わりの灰色の紐を結びなおし、ソファから足を下ろした。
何か踏んだ。
グニャリとした感触に、あわてて足を引っ込める。見ると床の上に透が長々と仰向けに横たわっている。なんの悩みもなさそうな、幸せそうな寝顔だ。ゴーゴーと音がすると思っていたら、この男のいびきだったのだ。
透の顔を見ながら圭斗は、自分の頭はやっぱり単純にできているのだと思う。今まで忘れてしまっていたほど腹を立てていたはずなのに、もう「そんなこと」と思ってしまっている。
――だけど、そんなこといってやらない。
「しょうがないからもう一度だけ、今だけ信じてやる」ってカオしていてやる。どうせ帰ったらもう、会うことなんてないのだろうし。
壁にかかった時計は午前四時を指している。圭斗はもう一度横になろうとしたが、そこで盛大に腹がなった。とてもじゃないが眠れそうにない。しかしこんな時間に緑山を起こすわけにも行かないし、食べるものなど持ってきていない。数ヶ月前の自分なら、どこへ行くのにも必ずお菓子を持ち歩いていたのだが。
「ニャー」
灰が後ろ足で頭を掻きながら言った。
「あ、そうか、おじさんのカバン」
灰のエサと一緒に、保存のきくバターケーキとペットボトルのジュースが入っていた。
ソファを降りる際にうっかりもう一度透を踏んで、圭斗はカバンを取りに自分の部屋に向かった。
「がふぁああぁ……」
あくびとともに、透はむくりと起き上がった。ふと横を見ると、圭斗がソファの上で膝を抱えて何かを食べている。まだ六時で、朝食までは二時間ある。
「もう起きてたのか。――おい、怪我したのか?」
「え?」
圭斗はきょとんとしている。しかし彼の服の右肘にはべっとりと、赤い血のようなものが付着していた。
「ああ、これ……。部屋が、荒らされてたんです。なにも盗られてなかったんですけど」
「荒らされてたって……絵の具でもまかれてたのか?」
「ええ、たぶんゴム人形と絵の具かなんかだと思いますけど」
「よくわかんねえな。ちょっと見てくる。あ、そうだ圭斗、今度からなんか変なことあったらちゃんと言えよ」
「はい。いってらっしゃい」
「おまえも行くんだよ」
「え」
「おまえの部屋だろう。それに、おまえをひとりにするのは心配で……」
圭斗はむっと眉を寄せた。
「いやです、めんどくさい。俺はここで灰とゴロゴロゴロゴロゴロゴロして待ってますから、気にしないでください」
「………………」
「早く、帰ってきてくださいね」
「わかったよ……」
小動物のように小首を傾げてそんなことを言われては、透も頷かざるを得ない。
「じゃあ圭斗、おとなしく待ってるんだぞ。すぐ戻ってくるから」
圭斗の頭をくしゃくしゃと撫でて、透は立ち上がった。
花屋のにーさんの孤独な闘い
無事に、夜が明けたのだろうか……?
彼は自問した。無事だ、確かに。
無事といっても、それは濱野タカ子とその夫だけで、彼自身は決して無事ではない。
濱野夫妻は夜中交互にあれやこれやと言ってきて、結局彼は、ほぼ貫徹。目の下にはくま隈ができ、いつもの朝なら寝癖だらけの髪の毛も、横になっていないために今朝はまっすぐのままだ。すれ違う子供に泣き出されるような目つきの悪い顔が、すれ違う子供に救急車でも呼ばれかねない不健康な顔に変貌してしまっている。
こんなことなら二日連続の撤マンなんか断って、一昨日は寝ておくんだった……。二万スッたし。
三日連続の徹夜に、彼は激しく後悔していた。